わずか9か月の結婚生活は壮絶なものでした。
【 自分の紹介】
年齢(性別):28才女
専業主婦【 配偶者の紹介 】
年齢:33歳男
仕事:会社員(製造業)【 離婚時の状況 】
結婚歴:9か月
子供 :なし
住宅 :新築一戸建
離婚した理由はズバリ、子供が出来なかったからです。
元夫は真面目なサラリーマンでした。物腰やわらかで誠実な、よくいえば「優しい人」でした。
私達は趣味のサークルで知り合って意気投合し、交際を始めて10か月で結婚しました。
付き合った当初はラブラブだったものの、実は結婚前からぎくしゃくした関係になっていて、お互いの両親や親戚の目もあり問題をうやむやにしたまま流されるように結婚したのがそもそもの間違いでした。
離婚した理由はズバリ、子供が出来なかったからです。
原因は私にありました。
私は以前から生理痛が激しく、婦人系の病気があるのではないかと心配していたので、婚約を機に病院でブライダルチェックを受けてみようと思っていた矢先、ある時突然下腹部に激痛が走り、救急車で搬送されました。
医師の診断結果は子宮内膜症でした。
両側の卵巣が腫れていて、手術を勧められました。
治療をしないと子供が望めないと。
当時の私にはあまりに衝撃的な宣告でした。
婦人病を気にしていたものの、まさかこんなに切羽詰まった状態だったなんて、私自身なかなか受け入れることが出来ませんでした。
そして、次に頭をよぎったのが、婚約者(元夫)に申し訳ないという気持ちでした。
勇気を出してありのままの病状を打ち明けたところ、元夫も困惑している様子でしたし、夫の母親(義母)も、結婚が決まった直後から「子供の名前はあそこのお寺でつけてもらおう」などと浮かれていたので、私が子供が出来にくい体であると知って表情が曇ったのがよくわかりました。
それでも、「だからすぐ婚約解消」というわけにもいかず、その後、私は両側の卵巣の温存手術を受けました。
手術は病巣だけを切除し、医師にも「これで安心して結婚が出来るね」とお墨付きをもらうほど上手くいきました。
私も、元夫も、これで結婚して順調に子供が出来ると信じて疑いませんでした。
そして私達はまもなく結婚し、早速夫婦生活を営みましたが、子供が出来る気配がありませんでした。
生理が来る度に私は落ち込んで泣いていました。
元夫も、優しく慰めてくれましたが、私はそれを申し訳なく思い、さらに泣いてしまうという毎日でした。
そのうちに、いつの間にか私達2人は子供を作ることしか頭にない状態になってしまいました。
私は不妊治療の病院に通い、辛くて痛い治療も我慢して受けました。
毎月来てしまう生理の度に号泣して、元夫に八つ当たりするようにもなり、元夫もまた、私が今回もダメだったことを知ると、ため息をついて無言になるようになりました。
夫婦の会話は子供のことばかりになりました。
気分転換のため旅行に行っても「子供がいたら・・・」という話になり、哀しくなる一方でした。
やがて、家庭内で会話すらなくなり、寝室も別々になっていきました。
しかしながら、排卵日前後になると、普段は口もきかない元夫が、その時だけ急に優しくなり私に夫婦生活を迫ってきました。
あまりの屈辱で、私は毎月泣きながら夫婦生活を営んでいました。
もうこの時点でお互いに愛情はなく、ただ子供をつくることだけが人生の目的のようになっていました。
離婚が決定的になったのは、不妊治療を進める中で、卵管の検査をした時です。
今まで毎週のように律儀に病院通いをして、ギリギリの生活費の中で多額の治療費を払い、結果を求めて先生の言う通りに薬を飲み、先生が指定した日に夫婦生活を行い、不妊に効果があるとされる食べ物も積極的に摂り、あらゆる努力をしたのに、この期に及んで両側の卵管が詰まっていることが発覚したのです。
結婚前に手術をした際の癒着が原因とのことでした。
医師には
「自然妊娠は不可能。体外受精しか道はない」
と断言されました。
私は放心状態になりました。
これまで子供が出来ないことで、夫や義両親に対して肩身の狭い思いを続けてきました。
私が子供が出来ないことで自分が辛いのはいい。
だけど、夫は職場で、実家で、親戚の集まりで、どれだけ辛い思いをしているのだろうかと考えるだけでも涙が止まりませんでした。
もしかしたら私ではなく、他の誰かと一緒になった方が子供に恵まれて幸せな人生を送ることが出来るのでは・・・いままでずっとそう思いながら生活を続けてきましたが、この時医師の宣告を受けて、その答えがはっきりとわかったような気がしました。
私達は結婚当時、元夫の給料が手取り19万にもかかわらず、無理をして新築一戸建の家を買い、生活もギリギリだったので、1回に30~70万かかる体外受精をする財力なんてありませんでした。
しかも、成功率はわずか20~30%のものに、そんな大金をつぎ込むことは出来ず、子供はその時点で諦めるしかありませんでした。
というより、私の中では金銭的なダメージではなく、これ以上この人との結婚生活を続ける気力が失われたというのが本音です。
それは相手も同じだったようです。
自然妊娠は無理だと告げると、元夫が言いました。
私の病気が発覚して以来、私を責め立てるようなことは一切なかったのですが、自然妊娠は無理だと告げると、元夫が言いました。
「子供が出来なかったら結婚した意味がない」と。
その一言が全てでした。それが本音なのでしょう。私も痛いほどわかりました。
義母にも号泣しながら謝りました。
「こんな体でごめんなさい。孫が埋めなくてごめんなさい。」と。
元夫も義母も、現実を目の当たりにしたのでしょう、私を慰める言葉は一切ありませんでした。
これ以上、この家の嫁として存在する資格はないと、私は離婚を切り出しました。
しかし、「子供が出来なかったら結婚した意味がない」と言い放った元夫の答えは「離婚には応じない」でした。
じゃあ何のために結婚するの?子供なしで私との生活が成り立つのかと、問い詰めました。
お互い愛情がなのはもうわかりきっているし、どうしても子供がほしいのならば、借金してまでも不妊治療をするか、もしくは里親になるか、そこまでの覚悟はあるのかと聞くと、そうでもない答え。
私は元夫がどうしたいのかさっぱりわかりませんでした。
挙句の果てには「どうしたいかは、親に相談してみる」という始末。
いい意味で「優しい人」は、”自分”がない、マザコン男でした。
それから、双方の両親が出てきて、何度も話し合いを重ねては決裂を繰り返しました。
自然妊娠が出来ないことを告げられるまで、私に対して腫れ物に触るかのように気を遣ってきた義両親は、子供が出来ない私のことを障害者と呼び、「子供は出来ません。でも尽くします。」という気持ちで180度態度をあらためろと言ってきました。
子供が出来ないから奴隷のように夫や家に尽くせなど、ふざけたことを平気で言うようになりました。
私の両親も毒親気質があり、この時も、味方してくれるのかと思いきや、「おまえは我慢が足りない」「そんな子に育てた覚えはない」と私を罵倒しました。
私は心の底から死にたくてたまりませんでした。
こんな生活から、こんな人から離れたいのに、お互い修復不可能な原因もよくわかっているのに、なぜ別れてもらえないのか。
話し合いは平行線のままで、相手側は、離婚を切り出した私の方に慰謝料を請求しようとしてきました。
このままいけば調停になる寸前での再度の話し合いの時、これまで強気だった義両親の態度が一転しました。
急に「うちの息子(元夫)が悪い」と言い出したのです。
なぜそういう展開になったのかというと、義両親が元夫に夫婦生活のことを聞くと、月1回しか夫婦生活がなかったことを打ち明けたそうです。
私としては、月1回でもあんな義務的な子作り儀式だったら何もないほうがずっとマシだったのですが、結局「元夫が夫婦生活を怠った」という結論で、協議離婚が成立しました。
財産は、2人で貯めた貯金は折半。私が持ち込んだ家具は、要るものは持ち戻り、不要なものは相手側に提供しました。
家は夫名義でしたので、私が出ていく形になりました。
家が新築が立ち並ぶ区画のど真ん中だったため、引っ越しは近所の人の注目の的でした。
私は出ていく身なので気にしませんでしたが、引っ越しに立ち会った義母は、体裁が悪く、私に最後まで嫌味を言い続けていました。
引っ越し屋さんに向かっても、2階から家具を吊り降ろす時に壁に少しでも傷が付いたら弁償してもらうと脅していました。
しかしそこはプロ。壁に当てることなく難なく外に出せました。
私はその後、単身用のマンションに引っ越し、元夫やその両親と顔を合わせることも連絡を取ることも一切ありませんでした。
離婚後、両親から「おまえはダメな人間だ」と烙印を押され、接するのが耐えられなくなり、3年間連絡を絶ちました。
現在は一応和解していますが、私の心に負った傷は深く、一生許すことは出来ません。
あれから15年が経ちました。
一度は彼氏も出来、再婚も考えたことがありましたが、いざ再婚が現実味を帯びてくるとなると初婚のことを思い出してしまい、結婚を踏みとどまり、結果その彼氏とは別れてしまいました。
現在も再婚は考えられません。
子供が出来ない体を受け入れるにはかなりの時間がかかりました。
でも、「子供が出来なかったら結婚した意味がない」と言った元夫の言葉は、私にも当てはまっています。
当時に比べ、不妊治療の技術も発達しており、保険も適用されるようになりました。
現在40代半ばになりましたが、医療の発展によりまだまだ子供が産める年齢です。
私が再婚するとしたら、もうどう頑張っても子供は望めないくらいの年齢に達してからと考えています。
その方が、周りからも「子供子供」と言われることもないし、当時のように肩身の狭い結婚生活を送らなくて済むからです。